2009年02月19日
傷つくことについて
傷つくことから逃げる子は、成長の機会を失っていると思います。
みんな傷つきながら成長するものだと思いますが、違うのでしょうか?
PTSDになるくらいひどい経験は別ですが、友達とケンカした、親にしかられた、教師に理不尽なことを言われた、見知らぬ人に言いがかりをつけられた、恋人に裏切られた、上司の発言に傷ついた・・・などは誰にでもある経験ですよね。
ところがこれらを恐れて、人と距離を置いて付き合い、いい子に徹し、内なる感情を見て見ぬふりをして大人になってしまったら、どういう大人になると思いますか?
だいぶ前ですが、高校時代からの友人と酒を飲んだときのことです。
それが私がちょうど落ち込んでいたときだったんですね。
私はパワーもなく、発言にも投げやりな、あるいは失礼なこともあったのでしょう。そうしたらそいつ、むちゃくちゃ攻撃を始めたんです。「はっきり言う。お前はバカだ。カスだ。」落ち込んでいる私の傷口に塩を塗るように、終始ケンカ調です。私はうんざりして、帰ろうと外へ出ました。
友人は後から外へ出てきました。私が置いてきたお金を手に取り、「こいつは俺がもらった金だから、こうしても文句ねーよな?」言いつつ、そいつはその金を燃やしやがったのです!
「何てことしやがる!」言いながら、私は友人を殴りました。
実は、友人はずっと、私が怒るのを待っていたのです。友人はさっきからずっと言っていたのです。悔しさを知れ、と。
「バカにされると悔しいだろ。俺な、1浪で早稲田に落ちたとき、1週間くらい落ち込んで、2浪しようかとも何度も考えたんだけどよ、悟ったんだ。俺はここまでなんだって。人生には努力だけじゃ超えられない壁があるんだって。お前、受かっちまったから、努力してできないことなんてないと思っているだろう。一人でなんでもできると思ってるんだろう。それがお前の弱さなんだ。自分の弱さを知れよ。できないこともあるってわかれよ。悔しくてもどうにもできないことがあるってわかれよ。」
その後、じばらく居酒屋の前にたたずんで語りました。どうか、40のオヤジが居酒屋前の地べたに座り込んで訥々と語る姿を想像していただきたい。
落ち込んでいる友達に対して、どのように接するのがふつうでしょうか?
テキトーに励まして、もっともらしい言葉をかけてお仕舞にすることもあるはずです。
私の友人は、そうはしませんでした。もっと落ち込ませてくれました。
また、愚痴る側も、慰めてもらいたい、甘えたい心境があるでしょう。
しかしそれで、何を得るのでしょうか?
私は受験生に対して、慰めや気休めは言いません。
落ち込んでる受験生には、「そんなに落ちたいの? 愚痴っても受からないよ。」と言うこともあります。
受かってほしいから。
少し前に「癒し」が流行りましたね。
でも「癒し」は、嫌なことを一時的に忘れるため、またはなかったことにするためなのでは?
たしかにたまには癒しもいいですが、そればかりじゃ進歩がありません。
なぜ裏切られたのか、なぜなじられたのかを分析しなくていいんですか?
自分には全く非がないのですか?
自分を棚に上げて「あんなことを言われた、こんな目にあった」と愚痴るだけでは、その後の対処法を学ぶことができないと思うのです。
癒されている場合ではないときも、人生のシーンには幾度もあるでしょう。
正義が必ず勝つわけではありません。
進歩しないことは後退することと同義です。
傷つくことから逃げてはいけません。
この3つは、どうしても子どもたちに教えてあげなくてはならない。
「一人でいれば、傷つくこともない」と思う人もいるでしょう。
自分の子どもには「傷ついてほしくない」と思う人もいるでしょう。
でも、前進し、ときに負けながら、子どもはたくましくなっていきます。それが「成長」なのでは?
さて、ここでまた質問です。
@幼少時からずーっと居心地のいい環境で過ごして、いきなり社会の荒波に出ること
A幼少時から荒波にもまれて育ち、十分に傷つく経験を積んでから社会に出ること
どちらがいいですか?

